損をする勇気


みとら 第7号 -2006年夏-
仏道そぞろ歩き[3]
損をする勇気
大正大学客員教授 ひろ さちや
1936年大阪市生まれ。東京大学文学部インド哲学科卒業、同大学院博士課程修了。
気象大学校教授を経て、宗教評論家として活躍。現在、大正大学客員教授。
主な著書は、『仏教はじめの一歩』(春秋社)、『釈迦とイエス』(新潮社)、『ポケット般若心経』(講談社)など。


トモイキチョウの反省
 極楽世界には共命鳥という鳥がいます。

 いえ、極楽世界というのは、古代のインドの仏教徒が想像した世界であり、また共命鳥もやはり古代のインド人が想像した動物です。もともとはインドの北部地方に生息する雉子の一種で、学者はその雉子をモデルに共命鳥を想像したのであろうと言っています。雉子のようにいい声で鳴く鳥だとされています。

 共命鳥は、古代インドのサンスクリット語ではジーヴァン・ジーヴァカ≠ナす。漢訳仏典ではこれを共命鳥≠ニ訳すほか、命命鳥∞生生鳥≠ニ訳しています。わたしは、これをトモイキチョウ≠ニ訳したらおもしろいと思います。だから、以下ではトモイキチョウ≠ニ表記することにします。

 トモイキチョウはちょっと変わった鳥で、体は一つですが頭が二つあります。ちょうどシャム双生児のようなものだと思ってください。

 それであるとき、トモイキチョウが喧嘩をしました。誰と喧嘩をしたかといえば、自分自身です。二つの頭が二つとも、

〈俺のほうがいい声だ〉
〈オイラのほうが美声なんだ〉

 と思い、それで相手(本当は自分)にライバル意識を持ったのです。そうして、このライバル意識がだんだんに昂じた結果、ついに、

〈こいつさえいなければいいのに……〉

 と思うようになりました。ライバル意識というものは、だいたいにおいてそうなりますね。

 かくて、一つの頭が、もう一つの頭をやっつけてやろうと思い、相手が食べる餌の中に毒を入れました。相手を毒殺しようと考えたのです。

 相手は何も知らずに毒入りの餌を食べ、ころりと死んでしまった。

 しかし、おわかりになりますね、体は一つですから、相手が死ぬことは自分が死ぬことになるのです。毒を入れたほうも、やはりころりと死んでしまったのです。

 馬鹿なトモイキチョウです。

 じつは仏典には、一羽のトモイキチョウだけがそのようにして死んでしまったかのように書かれていますが、わたしはそうではないと思います。数多くのトモイキチョウが、ライバル意識を持った結果、相手を殺そうとして自分自身が死んでしまった。そんな悲劇(それとも喜劇?)があちこちで繰り返されたのです。そこで、生き残ったトモイキチョウたちは反省会を開きました。彼らは事件を徹底的に分析し、討議し、どうしてそのような悲劇が生じるかといえば、それはライバル意識・競争意識にあることがわかったのです。その結果、彼らは、

 ――今後はライバル意識・競争意識を持つことはやめよう――

 と誓いました。そのように誓うことによって、トモイキチョウは極楽世界の鳥になったのです。わたしはそのように考察しています。


仲間意識とライバル意識
 ライバル(ライヴァル。rival)≠ニいう英語の語源はラテン語のリーヴァーリス(rivalis)≠ナ、その意味は「同じ小川の流れを一緒に使う者」です。したがって、ライバル≠フ本来の意味は「同僚、仕事仲間」でした。けれども、現在はこのような意味では使われなくなり、「競争相手、対抗者、敵手」の意味になっています。

 同じ川の水を使う者は本来は仲間です。でも、上流の者が川を汚染すれば、下流の人が困ります。外国では、国際河川の利水権が紛争の種になったりします。

 昔の日本は農業国でした。とくに稲作は水が大事です。我田引水≠ニいう言葉がありますが、これは夜中にこっそりと堰を切ったりして、自分の田に水を引くことです。そんなことをされては隣の田の人が迷惑を受けますから、隣の人を監視している。農村ではそれが日常茶飯事でした。まさにライバル関係になっていました。

 では、そんな隣人と離れて別の場所に住めばいいではないか、と言われそうですが、田や畑はどこでもいいわけではありません。水が得られる場所でないと、農業はできないのです。

 それに、時と場合によっては、隣人は助け合わねばならないのです。外敵の侵入を防ぐには集団の力が必要です。災難に見舞われたとき、助けてくれるのは隣人です。だから、隣人は仲間です。

 仲間であると同時にライバル。それが農村の人間関係です。しかし、現在の日本は農業国ではありません。だから、昔の人間関係は解消しているともいえます。にもかかわらず、日本人には農村型の人間関係の遺伝子が組み込まれているようです。わたしたちはついつい、人間関係をライバル関係、すなわち競争原理で捉えてしまいます。

 それと、近年の日本の会社・企業の風土が、かつての農村型の構造になっています。企業に働く人間は、みんな仲間であると同時にライバルの関係になります。実際は、それほどのライバル関係ではないのですが、企業・組織のほうは社員にわざとライバル意識を持たせようとします。営業成績のいい者の報酬を高くしたり、人事の上で抜擢したり、いわゆる勝ち組・負け組をつくりだすのです。社員はそれに乗せられて、社員どうしでライバル意識を持つのです。営業成績がいい・悪いというのはたまたまのことで、いま成績のいい者も次には悪くなり、いま悪い者もいつかよくなるかもしれない。そこに差をつけるほどのこともないのに、日本の企業はライバル意識・競争意識を煽るために、無理矢理差をつけるのです。それに乗せられる社員は馬鹿なんですが、日本では競争意識のある社員のほうが優秀だとされています。

 イギリスに在住している経済学者が指摘していましたが、日本人は、自分は上司から目をかけられていることを自慢します。しかしイギリスのサラリーマンであれば、部下を公平に扱うのが上司の仕事であり、特定の部下を依怙贔屓するような上司はけしからんと憤慨するそうです。そうだとすると、イギリス人の労働者には「仲間意識」があり、日本人の労働者には「ライバル意識」がある。そのように特徴づけることができそうです。

 これは多分、日本人が農耕民族の末裔であり、ヨーロッパ人が牧畜民族の末裔であることに関係していそうです。牧畜民族は農耕民族と違って同じ川の水を使って利害が対立することはありませんから、グループ内での団結が固いのです。だから自然に仲間の助け合い意識が形成されるのだと思います。


現代日本の政治家たちを叱る
 一事が万事で、現代の日本社会では、たとえば義務教育の中にまでライバル意識が浸透しています。子どもたちに点数を競わせているのです。政治家も財界人も、教育者も、みんなが「競争、競争」と言い、競争原理を礼讃しています。

 けれども、わたしが言いたいことは、仏教の教えでは、

 ――競争原理は地獄の原理である――

 ということです。トモイキチョウがそうでした。トモイキチョウが競争原理によるライバル意識を持ったとき、そこに地獄が出現したのです。ライバルを倒せば自分も死んでしまう。そんな簡単なことすら忘れてしまうほど、ライバル意識は恐ろしいものです。そんなライバル意識を助長してはいけません。ましてやライバル意識・競争原理を礼讃するなんて、とんでもない話です。

 そして、トモイキチョウが真の意味でのトモイキチョウとなり、極楽世界に住むことができたのは、彼らがその地獄の原理である競争原理を捨てたからです。競争原理を捨てたとき、わたしたちは「共生原理」に立脚できます。

 共生≠ニいった言葉は、まさにトモイキです。

 そこでわたしたちは、

 ――共生原理こそが極楽の原理である――

 と、しっかり認識しておきましょう。政治家や財界人が「競争、競争」と大合唱をしている現代日本にあって、ここのところをしっかりと認識しておくのが仏教者の責務です。

 「競争をすれば、この世は地獄になっちゃうぞ」

 と、仏教者ははっきりと言うべきです。仏教者が政治家に遠慮して、仏教の思想を言わないでいるのは、まことに無責任な話です。

 見てごらんなさい、日本の社会に競争原理を導入した政治家が出現したとたんに、日本には兇悪犯罪が増えました。親が子を殺し、子が親を殺す地獄が出現しました。リストラ地獄、受験地獄、通勤地獄……本当に日本は地獄になったのです。そして、何もかも失った老人が孤独に死んでゆかねばならない孤独地獄も出現しています。

 わたしたち仏教者は、声を大にして、

 「競争、ノー」

 と言うべきです。そうでないと、次の世代の若者たちに気の毒です。

 でも、いくらわれわれ仏教者が叫んでも、日本の社会の現実はちょっとやそっとでは変わらないでしょう。絶望すら感じます。

 しかし、くじけてはなりません。わたしたちは簡単にできることから始めましょう。

 まず、仲間というものは、同じ川の水を利用している人間だから、どうしても利害が対立してしまうのだ、といったことをしっかりと認識せねばなりません。ある意味では、

〈あいつさえいなければ、俺はもっと楽に生きられるのに……〉

 と思ってしまう。そういう関係になっているのです。

 でも、それをライバル関係にしてはいけないのです。そのために、仏教は、

 ――忍辱――

 の教えを説いています。忍辱≠ニいうのは耐え忍ぶことです。他人から受ける迷惑をじっと耐え忍ぶ。そうですね、わたしはこれを、

 ――損をする勇気――

 と名づけています。人間はどうしても損をするのはいやです。そこをちょっと勇気を出して、損をしてみるのです。そうすると、わたしたちの世界が極楽になるでしょう。

 そういう勇気を持つことが仏道修行ではないでしょうか。わたしはそう思います。


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