吉田宏晢さんにきく『生老病死を語る』

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みとら 第7号 -2006年夏-
インタビュー
吉田宏晢さんにきく『生老病死を語る』
大正大学名誉教授 吉田宏晢
1935年(昭和10年)埼玉県生まれ。
1961年(昭和36年)東京大学文学部哲学科卒業。
1983年(昭和58年)より大正大学教授を勤め、現在、名誉教授。
宥勝寺住職(真言宗智山派)。



競争原理と共生原理
 現代の日本は、競争、競争とさかんに言われています。けれども仏教においては、大正大学の学長であった椎尾辨匡先生が「とも生き」と言われたように、競争ではなく、共生が原理ですね。

 競争原理は、現代の社会体制や科学技術の進化といったものが生み出してくる必然的な方向性なんです。仏教ができた時代と現代とでは時代背景が違う訳ですから、仏教は共生原理だ、競争原理は認めない、と真っ向から否定する訳にはいかない。ただ時代が変わっても、人間の根本問題についての洞察は変わらない訳ですから、それをどのように話していくかということが、われわれ仏教者の一番の問題ですね。

 そこで、人間の根本のテーマは何かというと死であり、そして死というのは生の問題でもある。仏教では生老病死(=無常)を根本に据えており、これは時代が変わろうとも、変わらないテーマです。われわれは、この世に生まれ、年をとって、病気で死ぬ。まさにそのまっただ中にいる訳です。病気は病院で治療することもできるけれど、死は科学の及ばない領域にある。

 日本には、西洋からも思想や宗教が入ってきている。そこで西洋と東洋、あるいは哲学と宗教の共通項は何かというと、「死」ではないかと思うんです。「死」、つまり具体的には「死者」ですが、これは当然、生者との関係であるんですね。


死後の世界
 お通夜の法話で、死後はどうなるかと聞かれると、必然的に成仏、往生といった話になります。しかし私自身は死後の世界へ行ったことがないのに、どうして死後の世界について語れるのか、矛盾する訳です。そこで出てくるのが龍樹(ナーガールジュナ)です。

 死後の世界は肉眼では見えない。このことは、はっきりしている。では生まれる前はどうかというと、生まれる前もやはり見えないんです。それでは今、皆さんがどういう顔をしているか。その答えが龍樹の言う「自分の目で自分の目を見ることはできない」なんですね。誰も自分の顔を見たことがない。鏡に映る顔を本物だと思い込み、自分の顔は自分がいちばん良く知ってると思っている。けれどもそうではないんです。自分の顔は見えない。死んでからも見えないし、生まれる前も見えない。生きている今でさえ見えないんです。

 人間に限らず、犬や猫も自分の顔は見えない。生まれ、年をとり、病気をするのは、人間も犬も猫も同じです。では人間と動物は何が違うのか。その前に、人間は死ぬということをどうして知るのかというと、言葉だと思うんです。言葉によって知ることができる。これが人間と動物のはっきりとした違いなんです。言葉で知ったからといって、見えないことが見えるようになる訳ではない。けれど人間は、言葉を通じてコミュニケーションができるし、物事を知ることができる。

 そこで生老病死を考えると、それを乗り越えた存在が仏陀であり、その仏陀の説法が仏教である。お葬式の時にはそう話します。生老病死を乗り越えた存在である仏の世界がある。その仏の世界に往生し、これから仏の弟子になっていく儀式が葬儀である。そこでお経をあげて、お経を勉強して実践して、それで救われる訳です。とにかく、死んでそれで終わりというものではない。だからといって現在の生存がそのまま続く訳じゃない。仏陀はその問題の解決のために修行をし、解決した。その教えが仏の教えである。ほとけ(仏)、教え(法)、そしてそれを実践していく僧、つまり仏法僧の三宝に帰依するのが仏教です。そう説明するとみんなは何となくわかったような気になるみたいです。




生老病死からの解放
 生老病死の「生」は、「生きる」ではなく「生まれる」ですね。仏教においては、決して死だけ、老だけをとらえているのではない。「老」は生きながら自覚できますが、死んだ時に「死」は自覚できない。けれども、他人の死についてはわかる。しかしそれらが他人のことではなく、自分の問題になった時にどうとらえるか。仏教ではそれを、苦ととらえます。つまり人生には、生老病死という四つの思い通りにならないことがある。自分の意思で生まれることはできないから生も苦であり、老も病も、そして死も思い通りにならない。この思い通りにならないということを、漢訳仏典では苦≠ニ翻訳していますが、不如意≠るいは逼迫≠ニ訳すこともできます。ともかく最初の生まれるということ自体、思い通りにはならない訳で、さらに老病死も思い通りにならない。最初から最後まで思い通りにならない「苦」なんです。そしてそれをいかに乗り越えるかというのが仏教の課題なんです。つまり仏教の根本問題が、生老病死からの解放ということですね。

 生老病死の「生」は過去の苦であり、それに対して「死」はまだわれわれの誰も味わっていない未来の苦であるというとらえ方もあります。しかし日々老いつつあるということは、日々死につつあるということで、日々病みつつあるということは、日々死につつあるということ。そう考えると、老、病だけでなく、死も現在進行形だと説明できるのではないでしょうか。

 「老」については、老人ホームや社会福祉、あるいは老化を防ぐさまざまな方策によって解決できるように見える。「病」については薬や手術で治せるものもあり、寿命も延びている。そして現代では「死」でさえ、死体のエンバーミング(遺体衛生保存)といったことで、ある意味では隠されています。しかし本当は、子供や孫がもっと死というものに直面し、そして自分自身の問題だということを自覚しないといけないんです。そこから恐らく道徳も出てくるのではないでしょうか。

 先に、自分の目は自分で見ることができないと申しましたが、生まれた時には「いい子が生まれた」と両親が見守ってくれている。生きている時は、自分以外の人から見守られている。ある時は冷たい目で見られていることもありますが、自分が見ていなくても、周りから見られている。ご先祖様からも見られている。そして死んだ時には、子供たちが見守ってくれている。とにかく自分で自分の顔が見えないのだから、自分を信じようと思ったら、すべてから見られているということに気が付かないといけないんです。仏教徒でしたら、仏(すべて)に見守られていると信ずる。

 布教というのは、結局は説明がつかないということを布教していくんですね。だから泣くんです。遺族が泣いている時は自分も泣いている。しかし、泣いていてもその悲しみを乗り越えた存在が仏であるということを説く。その仏に見守られているんだ。その仏の弟子となって生老病死の苦を乗り越える修行の旅に出発するんだと言うしかない。そしてそれは故人だけでなく、生きている皆さんも三宝に帰依していく。競争原理と共生原理の話に戻すと、生きるということだけを考えていると競争原理優先になってしまう。生老病死ということを踏まえて、仏の世界に目覚める時、真の共生ということが可能になると思います。


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